2010年01月29日
『速報展2010』見どころ③ 千曲川下流域の縄文中期土器
中野市 千田(せんた)遺跡
千曲川下流域の縄文中期土器
千田遺跡は中野市(旧豊田村)豊津(とよつ)に所在します。JR飯山線替佐(かえさ)駅ちかく、
千曲川と斑尾(まだらお)川の合流地点南側一帯に広がる大規模な遺跡です。国土交通省に
よる堤防建設に伴って、平成14~19年に発掘調査しました。千曲川に面する地点では縄文・
弥生時代の集落、斑尾川に面する地点では古墳時代の集落、中・近世の集落と水田・畑跡が
見つかりました。縄文・弥生・古墳時代の竪穴住居跡は85軒、出土遺物は1,600箱にのぼり
ます。
住居跡の石囲炉と縄文土器 住居内の石囲炉と縄文土器
(37号住居跡) (25号住居跡)
縄文時代の集落域では53軒の中期の住居跡が検出され、北信地方では最大級の調査事例
となりました。住居跡は縄文中期でも中頃に属すものが多く、住居跡の壁際を一段高く掘り残し
た施設や、長さ2m近い長方形石囲(いしがこい)炉を備えた住居が目立ちます。これらは新潟
県に多い住居と考えられます。

渦巻文のある土器 立体的な装飾のある土器(前列左)
(37号住居跡) (25号住居跡)
今回速報展で展示する土器は、2軒の住居跡から出土したものです。口縁部に立体的な把手
を立ち上げたり、ところどころに様々な渦巻き文があしらわれています。土器の地文には、半分
に割った竹の管で描いた文様や、細かな綾杉(あやすぎ)文が隙間なく施されています。その一
方で縄文だけを施したり、そこに粘土紐をめぐらせた装飾の少ない土器もみられます。大小様々
な土器を組み合わせて、煮炊き用の土鍋や貯蔵の道具として使っていたものとみられます。こ
れらの土器のほとんどは、新潟県、特に上越地方に見られるタイプで、長野県で通常見られる
タイプは1割にも満たないようです。
千田遺跡では、住居の施設や土器のデザインなど新潟県の地方色を色濃く備えた点が数多く
みられることから、まるで“エチゴ”縄文人が“シナノ“につくった集落のようです。今後、遺跡の成
果をまとめるにあたって、千曲川本流に接する千田遺跡の個性が徐々に明らかになってくるとお
もいます。
千曲川下流域の縄文中期土器
千田遺跡は中野市(旧豊田村)豊津(とよつ)に所在します。JR飯山線替佐(かえさ)駅ちかく、
千曲川と斑尾(まだらお)川の合流地点南側一帯に広がる大規模な遺跡です。国土交通省に
よる堤防建設に伴って、平成14~19年に発掘調査しました。千曲川に面する地点では縄文・
弥生時代の集落、斑尾川に面する地点では古墳時代の集落、中・近世の集落と水田・畑跡が
見つかりました。縄文・弥生・古墳時代の竪穴住居跡は85軒、出土遺物は1,600箱にのぼり
ます。
住居跡の石囲炉と縄文土器 住居内の石囲炉と縄文土器
(37号住居跡) (25号住居跡)
縄文時代の集落域では53軒の中期の住居跡が検出され、北信地方では最大級の調査事例
となりました。住居跡は縄文中期でも中頃に属すものが多く、住居跡の壁際を一段高く掘り残し
た施設や、長さ2m近い長方形石囲(いしがこい)炉を備えた住居が目立ちます。これらは新潟
県に多い住居と考えられます。

渦巻文のある土器 立体的な装飾のある土器(前列左)
(37号住居跡) (25号住居跡)
今回速報展で展示する土器は、2軒の住居跡から出土したものです。口縁部に立体的な把手
を立ち上げたり、ところどころに様々な渦巻き文があしらわれています。土器の地文には、半分
に割った竹の管で描いた文様や、細かな綾杉(あやすぎ)文が隙間なく施されています。その一
方で縄文だけを施したり、そこに粘土紐をめぐらせた装飾の少ない土器もみられます。大小様々
な土器を組み合わせて、煮炊き用の土鍋や貯蔵の道具として使っていたものとみられます。こ
れらの土器のほとんどは、新潟県、特に上越地方に見られるタイプで、長野県で通常見られる
タイプは1割にも満たないようです。
千田遺跡では、住居の施設や土器のデザインなど新潟県の地方色を色濃く備えた点が数多く
みられることから、まるで“エチゴ”縄文人が“シナノ“につくった集落のようです。今後、遺跡の成
果をまとめるにあたって、千曲川本流に接する千田遺跡の個性が徐々に明らかになってくるとお
もいます。
2010年01月21日
『速報展2010』見どころ紹介② 八ヶ岳東麓の石器製作跡
佐久穂町 満り久保(まりくぼ)遺跡
八ヶ岳東麓の石器製作跡(旧石器時代)
それは9月11日の全面調査初日、地表の耕作土を鎌で削っている時、キラリと光る、3センチほどの黒い塊が目に留まった。よく見ると黒曜石(こくようせき)で、側面には縦長にそぎ落とした跡が縞(しま)状にみえる。石核(せっかく)!それも旧石器時代の細石刃核(さいせきじんかく)であった。職員、補助員、一同騒然となった。それまで指先ほどの黒曜石の破片ばかりで、縄文時代の遺跡と考えていたからである。細石刃核の大きさは3.5cmほどで東北日本に多く分布する船底形であった。
遺跡は八ヶ岳東麓の東西に延びる細い標高870mの細い尾根上に残されていた。中部横断道路の建設予定地に当たるため、長野県教育委員会が試し掘り調査をして新しく発見された遺跡である。過去に発掘調査などがなく、遺跡の情報は乏しかった。先の試し掘り調査では黒曜石のかけらとわずかに土器片が発見されていたことと、周辺には縄文時代の遺跡が分布していたため、この満り久保遺跡も縄文時代に残された遺跡であろうと考えていた。小さな黒曜石の石核は、遺跡の時代が1万年よりも古い旧石器時代に残された遺跡であることを明らかにした大きな発見であった。

遺跡遠景・八ヶ岳を望む 旧石器の調査風景
約3ヶ月の調査で、2,400点を超える旧石器時代の黒曜石製の石器、剥片が出土した。槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)(23点)、細石刃核(1点)、細石刃(2点)、石核(4点)、スクレイパー(10点)、縦長剥片(1点)、チャート製スクレイパー(2点)を数えるが、その他ほとんどは黒曜石の剥片・砕片であった。

細石刃核(長さ3.5cm) 細石刃 槍先形尖頭器
出土した石器は、槍先形尖頭器を代表とする時期(約15,000年前)と、細石刃・細石刃核を中心とする時期(約13,000年前)に分かれる。出土した槍先形尖頭器は、完形品はなく製作途中の未製品や破損品ばかりであった。遺跡の眼下を流れる大石川をさかのぼっていくと八ヶ岳連峰の麦草峠(むぎくさとうげ)に達する。ここは黒曜石の原産地である。麦草峠の黒曜石を携(たずさ)えた旧石器人がこの地に訪れ槍先形尖頭器を製作、破損品は遺跡に残し、おそらく完成した槍先をもって次の土地へと移動していったのだろう。
黒曜石以外に千曲川で採取できるチャート製のスクレイパーも出土した。旧石器人は千曲川流域と麦草峠周辺の八ヶ岳黒曜石原産地を行き来していた想像される。今よりも気温が低かった旧石器時代、標高2000m近い麦草峠周辺の黒曜石原産地は、夏場はよいが、冬はとても生活するには厳しい環境であったであろう。標高の比較的低い千曲川の流域に近い満り久保遺跡は暖かなシーズンが生活の舞台となったのかも知れない。
八ヶ岳東麓の石器製作跡(旧石器時代)
それは9月11日の全面調査初日、地表の耕作土を鎌で削っている時、キラリと光る、3センチほどの黒い塊が目に留まった。よく見ると黒曜石(こくようせき)で、側面には縦長にそぎ落とした跡が縞(しま)状にみえる。石核(せっかく)!それも旧石器時代の細石刃核(さいせきじんかく)であった。職員、補助員、一同騒然となった。それまで指先ほどの黒曜石の破片ばかりで、縄文時代の遺跡と考えていたからである。細石刃核の大きさは3.5cmほどで東北日本に多く分布する船底形であった。
遺跡は八ヶ岳東麓の東西に延びる細い標高870mの細い尾根上に残されていた。中部横断道路の建設予定地に当たるため、長野県教育委員会が試し掘り調査をして新しく発見された遺跡である。過去に発掘調査などがなく、遺跡の情報は乏しかった。先の試し掘り調査では黒曜石のかけらとわずかに土器片が発見されていたことと、周辺には縄文時代の遺跡が分布していたため、この満り久保遺跡も縄文時代に残された遺跡であろうと考えていた。小さな黒曜石の石核は、遺跡の時代が1万年よりも古い旧石器時代に残された遺跡であることを明らかにした大きな発見であった。

遺跡遠景・八ヶ岳を望む 旧石器の調査風景
約3ヶ月の調査で、2,400点を超える旧石器時代の黒曜石製の石器、剥片が出土した。槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)(23点)、細石刃核(1点)、細石刃(2点)、石核(4点)、スクレイパー(10点)、縦長剥片(1点)、チャート製スクレイパー(2点)を数えるが、その他ほとんどは黒曜石の剥片・砕片であった。

細石刃核(長さ3.5cm) 細石刃 槍先形尖頭器
出土した石器は、槍先形尖頭器を代表とする時期(約15,000年前)と、細石刃・細石刃核を中心とする時期(約13,000年前)に分かれる。出土した槍先形尖頭器は、完形品はなく製作途中の未製品や破損品ばかりであった。遺跡の眼下を流れる大石川をさかのぼっていくと八ヶ岳連峰の麦草峠(むぎくさとうげ)に達する。ここは黒曜石の原産地である。麦草峠の黒曜石を携(たずさ)えた旧石器人がこの地に訪れ槍先形尖頭器を製作、破損品は遺跡に残し、おそらく完成した槍先をもって次の土地へと移動していったのだろう。
黒曜石以外に千曲川で採取できるチャート製のスクレイパーも出土した。旧石器人は千曲川流域と麦草峠周辺の八ヶ岳黒曜石原産地を行き来していた想像される。今よりも気温が低かった旧石器時代、標高2000m近い麦草峠周辺の黒曜石原産地は、夏場はよいが、冬はとても生活するには厳しい環境であったであろう。標高の比較的低い千曲川の流域に近い満り久保遺跡は暖かなシーズンが生活の舞台となったのかも知れない。
2010年01月21日
『速報展2010』見どころ① 「美濃国」と刻印のある土器
佐久市 西近津(にしちかつ)遺跡群
「美濃国」と刻印のある土器(奈良時代)
一般公開の予定
1月23日(土)~2月7日(日) 御代田町浅間縄文ミュージアム
3月13日(土)~5月9日(日) 千曲市長野県立歴史館「長野県の遺跡発掘2010」
ぜひ、ご覧ください。お待ちしています。
土器のあらまし
現在整理作業を進めている佐久市の遺跡から、現在の岐阜県南部、古代の「美濃国」という文字の刻印がある土器が発見されました。奈良時代に作られた須恵器(陶質の土器)の坏(つき)と呼ばれる食器の破片で重さ37.5g、横7.0㎝、縦5.6㎝、厚さ1.0㎝、底部の内側に「美濃国」の文字の一部が刻印されています。
「美濃国」刻印土器は、岐阜市や各務原市の須恵器窯で、8世紀前葉(今から1300年前)に限って生産された、全国で唯一、国名が刻印された須恵器です。岐阜県を中心に分布していて、遠く奈良県の藤原宮跡や平城宮跡、三重県の斎宮跡での出土例から、中央へも税として納めていたのではないかと考える説もあります。長野県内ではこれまでに飯田市、岡谷市、松本市の3市6遺跡から7点がみつかっています。
今回出土した西近津遺跡群は、生産地から北東方向に直線距離で170kmも離れています。出土地としては最も遠く、北東限になります。
なぜ「美濃国」と刻印のある土器が佐久地域に運ばれてきたのでしょうか。国々を行き来するような位の高い役人が携えてきたのかもしれません。岐阜県境の神坂峠を越え伊那谷を抜ける東山道を通ってきたのでしょうか。それとも、土器が作られた頃整備された木曽路を利用したのでしょうか。
手の平にのるような小さな土器片ですが、信濃国佐久郡と美濃国のつながり、郡内有数の大規模集落である西近津遺跡群が営まれた理由を考える上でとても大きな意味をもっています。
「美濃国」と刻印のある土器(奈良時代)
一般公開の予定
1月23日(土)~2月7日(日) 御代田町浅間縄文ミュージアム
3月13日(土)~5月9日(日) 千曲市長野県立歴史館「長野県の遺跡発掘2010」
ぜひ、ご覧ください。お待ちしています。
土器のあらまし
現在整理作業を進めている佐久市の遺跡から、現在の岐阜県南部、古代の「美濃国」という文字の刻印がある土器が発見されました。奈良時代に作られた須恵器(陶質の土器)の坏(つき)と呼ばれる食器の破片で重さ37.5g、横7.0㎝、縦5.6㎝、厚さ1.0㎝、底部の内側に「美濃国」の文字の一部が刻印されています。「美濃国」刻印土器は、岐阜市や各務原市の須恵器窯で、8世紀前葉(今から1300年前)に限って生産された、全国で唯一、国名が刻印された須恵器です。岐阜県を中心に分布していて、遠く奈良県の藤原宮跡や平城宮跡、三重県の斎宮跡での出土例から、中央へも税として納めていたのではないかと考える説もあります。長野県内ではこれまでに飯田市、岡谷市、松本市の3市6遺跡から7点がみつかっています。
今回出土した西近津遺跡群は、生産地から北東方向に直線距離で170kmも離れています。出土地としては最も遠く、北東限になります。
なぜ「美濃国」と刻印のある土器が佐久地域に運ばれてきたのでしょうか。国々を行き来するような位の高い役人が携えてきたのかもしれません。岐阜県境の神坂峠を越え伊那谷を抜ける東山道を通ってきたのでしょうか。それとも、土器が作られた頃整備された木曽路を利用したのでしょうか。
手の平にのるような小さな土器片ですが、信濃国佐久郡と美濃国のつながり、郡内有数の大規模集落である西近津遺跡群が営まれた理由を考える上でとても大きな意味をもっています。
2009年07月02日
やなぎさわ通信①
1号銅戈
-完全な形の九州型銅戈 長野県立歴史館で初公開-

1号銅戈の全体写真
2007年2月、柳沢遺跡の調査メンバーは、埋納坑(まいのうこう)に残る最後の銅戈(どうか)
の取り上げ作業を進めていた。表面についた土を取り除き、銅戈の特徴が明らかになるにつれ、
一同は絶句した。
銅戈の中央に走る2本の溝の先端がひとつに合わさり、溝の中には綾杉(あやすぎ)文が浮
かび上がっていたのだ。しかも柄に差し込む四角い出っ張り部分には鉤(かぎ)状の文様も確
認できる。いずれも九州の北部を中心に分布する銅戈の特徴だ。後日、銅戈の形とサイズを
細かく検討した結果、「中細形」(ちゅうぼそがた)であることが判明した。

1号銅戈の近接写真
銅戈は日本に伝わり武器から祭器に急激に形を変えることが知られている。「中細形」とは、
刃が短く細い形「細形」から刃が長くて幅広い形「広形」に変化する途中の段階に位置する形
式であり、約2000年前に作られたと考えられる。これが島根-広島-高知を結ぶラインより
東で完全な形で出土したのは全国初である。同じ埋納坑から出土した残りの銅戈は、いずれ
も2本溝の先端が離れている近畿型である。九州型と近畿型の銅戈がともに発見されるのも
全国で初めてとなった。
発見時の1号銅戈は近畿型銅戈と較べて、刃の一部がボロボロと崩れ始めていた。どうや
ら九州型は近畿型と金属成分に違いがありそうだ。
2008年奈良文化財研究所で1・2・3号銅戈に対する金属成分の分析が行われた。銅戈は
銅(どう)、錫(すず)、鉛(なまり)を主成分とする合金だが、分析の結果2・3号は銅が約77%、
錫が約14%であるのに対し、1号は銅が約85%、錫が4%と、錫の割合が少ないことがわか
った。柳沢遺跡では出土した全部の青銅器に対しても同様な分析を行う予定だ。製作地や材
料産出地を探し求める作業はこれからも続く。
-完全な形の九州型銅戈 長野県立歴史館で初公開-

1号銅戈の全体写真
2007年2月、柳沢遺跡の調査メンバーは、埋納坑(まいのうこう)に残る最後の銅戈(どうか)
の取り上げ作業を進めていた。表面についた土を取り除き、銅戈の特徴が明らかになるにつれ、
一同は絶句した。
銅戈の中央に走る2本の溝の先端がひとつに合わさり、溝の中には綾杉(あやすぎ)文が浮
かび上がっていたのだ。しかも柄に差し込む四角い出っ張り部分には鉤(かぎ)状の文様も確
認できる。いずれも九州の北部を中心に分布する銅戈の特徴だ。後日、銅戈の形とサイズを
細かく検討した結果、「中細形」(ちゅうぼそがた)であることが判明した。

1号銅戈の近接写真
銅戈は日本に伝わり武器から祭器に急激に形を変えることが知られている。「中細形」とは、
刃が短く細い形「細形」から刃が長くて幅広い形「広形」に変化する途中の段階に位置する形
式であり、約2000年前に作られたと考えられる。これが島根-広島-高知を結ぶラインより
東で完全な形で出土したのは全国初である。同じ埋納坑から出土した残りの銅戈は、いずれ
も2本溝の先端が離れている近畿型である。九州型と近畿型の銅戈がともに発見されるのも
全国で初めてとなった。
発見時の1号銅戈は近畿型銅戈と較べて、刃の一部がボロボロと崩れ始めていた。どうや
ら九州型は近畿型と金属成分に違いがありそうだ。
2008年奈良文化財研究所で1・2・3号銅戈に対する金属成分の分析が行われた。銅戈は
銅(どう)、錫(すず)、鉛(なまり)を主成分とする合金だが、分析の結果2・3号は銅が約77%、
錫が約14%であるのに対し、1号は銅が約85%、錫が4%と、錫の割合が少ないことがわか
った。柳沢遺跡では出土した全部の青銅器に対しても同様な分析を行う予定だ。製作地や材
料産出地を探し求める作業はこれからも続く。
